〜 edith Piaf Story 〜




 初めてピアフのレコードを購入したのは1997年の夏、ワタクシが働いていたレコード屋の

特価CD150円のアルバムで御座いました。 もちろん無許可の海賊版・・・。 ダガシカシ!!

その中身は値段とは大きく反比例し、ピアフの代表曲がビシバシと詰まりまくったBEST盤。

今まで「愛の賛歌」や「薔薇色の人生」など、なんとなくは耳にした事は御座いましたが、じっくりと

聴いたのはこの時が初めてだったワタクシは、ピアフの力強く哀愁漂う歌声と、シャンソンの世界に

見事とりつかれ雁字搦め状態に・・・。 どっぷりと足の先から頭のつむじまで、彼女の世界にはまって

しまった次第で御座います。 そして2001年12月19日発売されたピアフの2枚組みBESTアルバム

“ETERNAL”購入。 ワタクシが大好きな「道化師万歳!」他未発表音源が2曲、合計38曲も入って

いる申し分の無いアルバムで御座います。 最近購入した「ミラーボール」を部屋でクルクル回し

ベットに腰掛け、赤ワインを片手にこのアルバムを聴くことが、ワタクシの休日の過ごし方となりました。



それではワタクシめJOKERが、唯一無二のシャンソン歌手“エディット・ピアフ”の生涯について熱く語らせて頂きます! 





† 第一章  誕生編 †

 エディット・ピアフは1915年12月19日午前5時、現在彼女が永眠しているペール・ラシェーズ墓地に近い

パリ20区ラ・シーヌ通り4番地の病院で『エディット・ジョバンナ・ガッション』の名前でこの世に生を受けました。 

父“ルイ・アルフォンス・ガッション”は大道曲芸師、母“アニタ・マイヤール”は“リーヌ・マルサ”の名前の

大道歌手で御座いました。 時代は第一次世界大戦勃発のさなかで父は軍隊に、母は出産から2ヵ月後に幼い

ピアフと夫を棄てて蒸発。 その為ピアフの面倒を見るものが居らず、彼女は母方の祖母の元に預けられました。

この祖母というのがかなりの曲者。 ノルマンディのモーリス・シュヴァリエに住み、娼家で働く慢性的アルコール

中毒者、そんな祖母はこともあろうか幼いピアフに、なんとミルク変わりに哺乳瓶に赤ワインを入れ飲ましておりました。

これはまさに幼児虐待!!
 祖母曰く、「アルコールは回虫を殺すから身体にいいのよ」と・・・いいわけないだろ・・・・。 

哀れピアフ、鬼婆さんのせいで幼くしてアル中状態、お陰で白内障を患い、両目を失明してしまいました・・・。

ダガシカシ!!3年後、聖地ルルドに巡礼たピアフは奇跡的に光を取り戻します。 以降、ピアフ

超自然現象を信じるようになり、自伝の中でも、奇跡とか神の恩寵という言葉を繰り返しております。

ちなみにピアフと夫を棄てた母は1945年、麻薬として使用していたモルヒネの量を間違えて注射し、ショック死。

同棲していた男は恐怖のあまり、死体を川に捨てたそうです。 ピアフは自分を棄てた母を決して許さなかったが

そのために見舞われた悲惨な境涯について不満をもらすことはなかった。 「もし、あんな風にして生きてこなかったら

アタシはピアフになれなかったもの」というのが彼女の口癖であった。 まさに彼女らしい言葉で御座います。

娼婦と酔客の中に少女を置くことを司祭に諌められた父はピアフを手元に引き取り、10歳の彼女は父と共に

放浪生活を送るようになります。 父が芸をしている間に、ピアフは帽子を持って見物人の間を回ってお金を

集めます。 こうした生活の中で、彼女自身も唄い自分の声の能力を発見します。 そしてピアフは15歳の時

自分自身の翼で飛び立つ決心し、父の元を去るのでした。 



 1932年、ピアフは見物人の中にいた“プチ・ルイ”こと“ルイ・デュポン”と「ポルト・デ・リラ」で出会い、

ベルビル通りの安宿で同棲を始めます。 そして翌年、愛娘“マルセル”が誕生しましたが、この間に

外人部隊の兵隊との情事がありました。 さすが伝説の恋多き歌姫で御座います・・・。 ずっと後でこの話を

作詞家の“レイモン・アッソー”にしたところ、彼は有名な『モン・レジオネール(私の兵隊さん)』を作曲して

くれたのだそうです。 ちなみにその兵隊さんはその後、アフリカで死んでしまいます・・・南無阿弥陀仏・・・。

そして2年後、情事の天罰か?愛人の兵隊の呪いなのか? ピアフは愛娘の“マルセル”を脳膜炎で亡くし、

同時に夫の“プチ・ルイ”とも別れてしまいます。 ピアフ18歳の時でした。 その後、ピアフは娼婦やヒモが

たむろするピギャールに住み始め、彼女は「ベルビル」や「ピギャール」で歌い続けていました。



 1935年、街角で歌っていたピアフの歌声を通りかかった“ルイ・ルプレ”というキャバレー経営者が耳に

留めました。 彼はパリで最高級キャバレーの一つ「ジェルニーズ」にエディットを出演させる契約を結びました。

この時から『ラ・モーム・ピアフ
(「雀の様な小娘」という意味)』という芸名でステージに立つようになりました。

街頭で歌って鍛えあげた彼女の歌声は客席の社交人を大変驚かせました。 たまたまその中に、お忍びで来ていた

シャンソン歌手であり、フランス映画界の名優でもある“モーリス・シュヴァリエ”が立ち上がって、「ブラボー!! 

あの娘は身体で歌っている」と叫びました。 これでピアフの将来は約束されようなもので御座います。

1936年、“ルイ・ルプレ”は、彼女に最初のレコード『Les Mome de la cloche』を録音させます。

ラ・モーム・ピアフとしてデビューして間もなく、1936年4月、“ルイ・ルプレ”がトルコ風呂の中で何者かに

殺害され、なんとピアフにその殺人の嫌疑がかけられてしまいます。 理由はピアフがピギャール界隈で

ごろつきとかマフィアとの付き合いがあったからです。 警察に殺人の容疑者として逮捕されてしまいますが、

結局証拠不充分で釈放されます。 そんな時、ピアフは新進作詞家“レイモン・アッソ”に救いを求めます。

”レイモン・アッソ”は彼女を3年の年月をかけて変身させました。 それは彼がピアフに本を読むこと、

娼婦やろくでなしの世界とはまったく別な世界が存在することを教え、ピギャールの毒や波乱に富み汚辱に

まみれた不幸な少女時代の毒を洗い落としてくれたのです。  まさに”レイモン・アッソ”は彼女にとって

足長おじさん的存在で御座います。 レイモン・アッソ”はピアフのために、女流作曲家“マルグリット・モノ”と

共に『私の兵隊さん』、『連隊旗』、『哀れな黒人の旅』、『私は終わりを知らない』などピアフの初期のヒット曲を

書いてくれました。 ピアフは”レイモン・アッソ”のおかげで愛を信じ、愛の為に生きる人間に生まれ変わります。 

そしてついに芸名も『エディット・ピアフ』に変えます。 1937年、エディット23歳でした。

彼女はパリ最大のミュージック・ホールの一つ「ABC」の公演で成功を収め、要約彼女は栄光への階段を登ることが

でき、 そして最初の映画「ギャルソンヌ」を撮り、 『ボビノ』ではポスターのトップを飾ることができたので御座います。 








 1940年、エディット・ピアフはコメディアンの“ポール・ムリス”と出会います。

二人の関係は2年続きましたが、性格は正反対で御座いました。 “ポール・ムリス”は優雅で、冷静で、控えめで、

ピアフに行儀、振舞いを教えました。 1940年に“ジャン・コクトー”はピアフと“ポール・ムリス”のために

「Le Bel indifferent」を書いて成功しております。 この作品でピアフは演劇の才能をも披露しました。

ピアフと”ポール・ムリス”は“ジョルジュ・ラコンブ監督”の映画「Monmartre sur scene」で“ジャン・ルイ・バロー”

と共演し、この映画の撮影で後に彼女の主要な作曲家の一人となる“アンリ・コンテ”と出会います。


 
1944年、ピアフは30歳に近かったのですが、23歳の青年“イヴ・モンタン”に出会い、彼を愛しました。

彼女は“イヴ・モンタン”のデビューに力を貸し、衣装からレパートリーまですべて面倒を見てやりました。

そして“アンリ・コンテ”に“イヴ・モンタン”の終生のレパートリーとなる『闘うジョー』、『ルナ・パーク』などの曲を

書かせます。 1945年には映画「光のない星」で共演もしました。 そしてこの年の終わりにピアフは自分一人で

最も人気のあるシャンソンの一つ『ラ・ビアン・ローズ(薔薇色の人生)』を作曲しました。 この曲は“ピエール

・ルイギー”との共作ということになっていますが、それはエディットが「作曲家協会」(SACEM)の会員資格がなかった

からです。 以降、ピアフは生涯で約80曲作曲しております。




† 第二章 愛の賛歌編へ †


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