〜 edith Piaf Story 〜 |
† 最終章 晩年編 † |
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不幸というものは無情にも重ねてやってくるもの、彼女は更に二度の自動車事故で重傷を負い、入退院の 繰り返しで御座いました。 事故・病気・精神安定剤・・・。 精神錯乱に陥ったピアフは薬と麻薬に溺れた上 自己破産・・・・。 まさに泥沼のような日々・・・オーブビエール。 ダガシカシ!! 麻薬の禁断症状との 長い苦しい戦いに勝ち、ピアフは見事立ち直り、歌姫は蘇りました。 1950年、若きシンガー・ソングライター “シャルル・アズナブール”が秘書兼、運転手の役をしてくれました。 ピアフは“シャルル・アズナブール”を 1945年頃から援助してきました。 ”シャルル・アズナブール”はピアフのために『ジェザベル』、『あなたの目 よりも青く』などの曲を捧げ、ピアフの死まで忠実で御座いました。 この年にはクラシック音楽の殿堂「プレイエル」 で公演しました。 いわゆる芸能人としては初めての公演、彼女ならでは実力と快挙で御座いました。 |
1952年、ピアフは歌手の“ジャック・ピルス”とニューヨークで結婚します。 (ジャック・ピルスは有名なデュエット「ピルスとタベ」の一人。リュシエンヌ・ボワイエの夫でした。) この時のニューヨーク公演にピアの伴奏者として若き“ジルベール・ベコー”を連れて行きます。 “ジルベール・ベコー”はピアフのために『Je t'ai dans la peau』(ピルスと共作)を作曲しました。 1955年、「オランピア劇場」での公演のため、リサイタルに対する意欲もエネルギーを取り戻しますが、健康は 快復しておりませんでした。 ダガシカシ!!ピアフの声は驚くほど力強かったと言われます。 そしてこの年から 1956年はじめにかけてアメリカ公演をしますが、ニューヨークの「カーネギー・ホール」では22曲のシャンソンを 歌いました。 そしてエディット・ピアフは疑いもなく、第一級の国際スターとなりました。 1月から5月まで、ラテン・アメリカ・ツアーをします。 5月14日にパリへ帰り、5月24日からの「オランピア劇場」の リサイタルでは『オートバイの男』、『いつかの二人』、2曲のアメリカのロックを歌います。 そして9月には南米ツアーに出発しますが、健康は悪化しております。 南米から『群衆』を持ち帰ると、「オランピア劇場デビュー20年」のリサイタル(1958年)で創唱、 最大のヒット曲の一つ『私の回転木馬』も創唱しました。 この年、ギリシャ生まれのシンガー・ソングライターの “ジョルジュ・ムスタキ”に出会います。 “ジョルジュ・ムスタキ”はピアフのために、マルグリット・モノと『ミロール』を 捧げました。 1960年には、若い作曲家“シャルル・デュモン”と出会います。 デュモンはピアフに『私は後悔しない』 を書きました。 ピアフはこの曲名に圧倒され、1961年の「オランピア劇場」でのリサイタルでこの曲を歌いました。 |
1961年、ピアフは生涯最後の男性、そして世に出そうと努めた最後の歌手、若いギリシャ人 “テオファニス・ランブーカス”と出会い、名前も“テオ・サラボ”と改名させました。 ちなみに「サラボ」 とは、ギリシャ語の「あなたを愛す」という言葉で御座います。 きっとピアフの母性愛の発露だったのでしょう。 この年6月、ピアフは彼女の功績に対して、アカデミー・シャルル・クロのディスク大賞が授与されました。 そして1962年10月9日、ピアフは“テオ・サラポ”と結婚します。 1963年2月には、『ボビノ』で“テオ・サラポ”と 共演しました。 この時二人は『恋は何のために』をデュエットしています。 |
ダガシカシ!! 1963年4月、ピアフは意識不明の重体に陥り、南仏カンヌの丘で10月11日に永眠・・・・。 彼女の訃報にフランス中の人々は泣き、悲しみに沈みました。 そして単なる偶然なのか、それともピアフの死の ショックからなのか、彼女の親友“ジャン・コクトー”もピアフの後を追うようにして、同じ日に心臓発作を起こして逝去。 10月14日に行われた葬儀には、6万人もの彼女の死を惜しむ群衆がペール・ラシェーズ墓地に詰掛けました。 現在でも多くのピアフファンが墓地におと連れて、彼女の墓前には沢山の花が捧げられているそうです。 エディット・ピアフ、彼女の歌声は今もなお世界中の人々に愛され、力強く自分らしく生き抜いた彼女の 波乱万丈に満ち溢れた恋多き人生は、色褪せること無き伝説としてこれからも永遠に語り告がれていくことでしょう。 〜 F i n 〜 |
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